LOGIN「貴晴、そわそわしてるようだが何かあったか?」 邸に訊ねてきた隆亮が言った。 「返事が来ないんだ」 貴晴が答える。「管大納言の大姫から?」 「誰に聞いた!?」 「歌にしか興味なかった男が文を贈る相手なんか歌が評判の姫しかいないだろ」 隆亮が突っ込む。 それはそうだ……。 隆亮の返事に貴晴は言葉に詰まった。「で、何回無視された?」 「初めてに決まってるだろ!」 「お前、ホントに女性に文を贈ったことなかったんだな。最初は返事が来ないんだよ」 隆亮にそう言われてようやく仕組みを思い出した。「一通目じゃ、きっと姫は見てもいないぞ」 隆亮が言った。 そういえばそうか……。「心配するのは三回以上贈ってからだ」 隆亮の言葉に、 「そうか……」 貴晴が心許ない思いで頷く。 何しろ貴晴はまだ従五位下だし父も出世の見込みのない木っ端役人だ。 下手したら三回どころか三十回贈っても返事は来ないかもしれない。「まぁ、そういうわけで――」 隆亮の言葉に、 「どういうわけだ」 貴晴が突っ込む。「お前を呼びに来た」 隆亮が言った。 「どこへ?」 貴晴が訊ねる。「内裏だ」 隆亮が答える。 「そういうことは先に言え!」 参内するなると衣冠束帯――正装でなければならない。 装束を用意するのも、それを着るのにも時間が掛かる。「若様、支度は出来ております」 どうやら貴晴のところに来る前に由太に支度をしておくように伝えてあったらしい。 隆亮と供に内裏へ向かう途中、牛車が止まったかと思うと向きが変わった。 御簾から覗いてみたが内裏に着いたわけではない。「どうした」 隆亮が牛飼童に訊ねる。 「あの道の先に死体があったそうです」 牛飼童が答える。
〝藤浪の なみたつ想ひ ちりぢりに よする汀は 恋に濡れなむ〟「由太、これを管大納言の大姫に届けてくれ」 貴晴はそう言って文を由太に差し出した。 由太が文に目を落とす。「あの……姫ということはこれは懸想文ですよね?」「当たり前だろう」 貴晴がそう答えると由太が深い溜息を吐いた。「なんだ?」「懸想文をこんな色気のない紙で出す人がいますか!」 由太はそう言ってから、「読んでも?」 と訊ねると、貴晴が許可する前に文を開いた。「このお歌なら紙は薄色がよろしいでしょう。それに藤の花を添えた方がいいですね。若様は清書していてください。花を採って参ります」 由太は貴晴の返事を待たずに花を採りに行ってしまった。 仕方ない……。 貴晴は侍女に薄色――薄い紫色の紙を持ってくるように言い付けると、清書のために部屋に戻った。「五月待つ……う~ん……」 庭で歌を詠んでいた織子は首を傾げた。 そのとき邸の中が騒がしいことに気付いた。 今日は宴や歌会などを催す予定はないはずだ。 少なくとも織子は聞いていない。 織子は北の対――北の方のいる建物に向かった。「お義母様、何かあったのですか?」 織子が義母に訊ねると、「警護の者を増やしたのです」 義母が答えた。 近衛府から派遣されてくる随身の人数は決まっているから、それ以上増やしたければ自分で雇うことになる。「急にどうなさったのですか?」 織子が驚いて訊ねると、「なんでも左大臣様の……」 義母が話し始めた。「左大臣の邸に群盗が押し入ろうとした!?」 隆亮から話を聞いた貴晴は声を上げた。 貴晴は隆亮の邸に来ていた。「そうらしい」 隆亮が答える。「それで被害は……?」「随身や家人の何人かがケガをした程度で済んだとか……」 家人というのは使用人のことである。「〝鬼〟の仕業ではないかという噂があるそうだ」 隆亮が付け加えた。 鬼……。 つまり群盗か……。「盗まれた物は?」 貴晴が訊ねた。「詳しいことはまだ……」 隆亮が答えた。 左大臣の邸なら高価なものが色々あっただろう。 海を越えてきたような品もかなりあ
「…………」 貴晴と隆亮は視線を交わした。「あ、あの……」 大姫が困ったような声で言い掛けてから口籠もる。 大納言の随身は六人。 大の男が六人も必要になる用……? 大荷物を運ぶのでもない限り考えづらいし、どちらにしろそういうのは随身ではなくて使用人にさせるものだ。 となると自分で人払いをしたのかもしれない。 例えば男との逢瀬とかで……。 男と二人きりになりたくて人払いをしたのなら随身達が揃っていなくてもおかしくはないが……。 貴晴はさり気なく身体の向きを変えて牛車の前の御簾に視線を走らせた。 男物の衣裳の裾は出ていない。 貴晴が牛車の方に目を向けた時、辺りに盗賊以外の男はいなかったから一人で飛び降りて逃げたのでもないだろう。 となると男が裾を中に引き込んで、はみ出さないように抱え込んでいるのでもない限り乗っていないという事だ。「そういうことなら……お気を付けて」 としか言いようがない。貴晴がそう声を掛けると、「ありがとうございました」 という大姫の声を残して牛車は向きを変えた。 寺の方に戻っていく。管大納言の邸は反対方向だ。 なんでわざわざ寺に戻るんだ? 訝しみながら牛車を見つめていた貴晴は隆亮に促されて隆亮の牛車が止まっているところに戻った。「どういう事!?」 牛車に乗ってきた匡が織子を咎めた。「どうと聞かれても……」 織子が牛車を盗ませたわけではない。 一番驚いたのも怖い思いをしたのも織子だ。 それにしても……。 前に牛車から降りた時は殺されそうになったから今回は中で大人しくていていたのに……。 牛車には嫌な思い出しか……。 そう思い掛けてさっき助けてくれた人のことを思い出した。 まさか誰かと歌のやりとりが出来るとは思わなかった。 歌のやりとりなんて物語の中でしかあり得ないと思ってたのに……。 お互い姿が見えないのに歌だけで思いを伝え合うなんて……。 そう思うと胸がときめいた。 もっとも、これで終わりなのだが――。 下の句を詠んだ時もさっきも、お互いどこの誰か知らないのだ。 もし次の機会があったとしてもそれがさっきの人かどうかは知りようがない。 まさか合い言葉みたいに今朝の歌の下の句と上の句を言い合って確かめるわけにもいかない。 出来なくはないがあまり
「本当に貴晴を弾正台にする気があるんですか?」 隆亮が『そんな難題を押し付けるなんて』と言いたげに訊ねた。 祖父は隆亮の質問には答えず、貴晴に顔を向けた。「黒幕がいると思っているのでしょう。親王か公卿――おそらく大臣のうちの誰か」 貴晴が祖父の無言の問いに答える。 内裏に住んでいない親王は母方の祖父母と暮らしていることが多いし、親王の祖父は大抵は大臣か元大臣だ。 大臣は広い邸に住んでいる上に別邸も持っている。 盗賊が家人に知られずに出入りすることも可能だし、検非違使に調べられる心配もない。「お前、意外と賢いんだな」「さっきのはホントにお追従か!」 貴晴が白い目で隆亮を見た。「おそらく貴晴の予想通りだと思われているようだ」 祖父が答える。 思われている……。 そう思っているのは祖父ではないのだ。『誰が』とは言わなかったが、祖父には弾正台を勝手に決める権限などないのだから当然だ。 本来なら親王がなる弾正台を祖父を通じて打診してきたのも貴晴の出自を知っているからだろう。 となると祖父に話を持ち掛けてきたのはおそらく……。 織子は御簾の隙間から外を見ていた。 後で今日の歌を詠まなければならなくなるかもしれない。 桜は満開だから適当に花の歌を詠めばいいのかもしれないが、それだと当たり障りのない歌になってしまう。 会場(の近く)から見えたものを詠み込んだ方がいいはずだ。「春花の……」 歌を考えるなら出来れば地面に書きながらしたいのだが人に姿を見られたら義母や匡に叱られるだろうし、何より以前牛車から降りて怖い目に遭った。 警護の者達は匡に随いていってしまっているから今はいない。 次に襲われた時また助けが現れるとは限らないのだから牛車の中で大人しくしていた方がいいだろう。〝届かめと なげきを空に……〟「墨染めの……」 織子はさっきの上の句を呟いた。 さすがに今日の歌会の歌で〝墨染めの〟はダメよね……。 墨染めというのは喪に服しているという意味である。 さっきの方は親しい方を亡くしたのかしら……。 そう思った時、牛車の前方が上がった。 牛に車を繋い
邸を出た貴晴が歩いていると牛車がやってくるのが見えた。 車体が白っぽく見えるのは檳榔という植物を編んだ物で覆っているからで『檳榔毛の車』といって四位以上でなければ乗れない牛車である。 貴晴は足を止めると道を譲るために脇に避けた。 よくよく考えてみたら貴晴の乗ってきた牛車は邸の前だ。 牛車に乗って帰るとなると隆亮と同乗することになる。 当然さっきの話が出るだろう。 それが嫌なら歩いて帰るしかない。 まぁ、歩いて帰れない距離ではないが……。 そんな事を考えている間にも別の牛車が通り過ぎていく。 どうやらこの先にある寺で何かあるらしい。 法会か歌会か……。 花の季節だから花を絡めた題詠で詠ませる歌会かもしれない。 山は満開の桜で淡い色に染まっている。 二年前、貴晴が信じていた世界は偽りだったと知った。 あそこは近くに寺があったのだし、あのとき出家すれば良かった……。「届かめと なげきを空に 墨染めの……」 貴晴が呟いた。 下の句はどうするか……。「桜は野辺の 煙なるかな」 不意に女性の声が聞こえてきて貴晴は振り返った。 背後に止まっていた牛車に乗っている女性が下の句を読んだのだ。 貴晴が何か言う前に牛車が動き始めて寺の方へ行ってしまった。 どうやら寺の入口が混んでいたから空くのを待っていたらしい。「ああ、管大納言か」 追い掛けてきた隆亮が牛車を見送りながら言った。「管大納言? なんであの牛車が管大納言の車だって分かった?」 檳榔毛の車は他にも二、三台は見掛けたから車だけでは判断出来ないはずだ。「姫が乗ってるだろ」 隆亮がそう言って牛車の後ろの御簾を指した。 牛車の後ろの御簾から女性の衣裳の裾が見えている。 この季節らしい桜の襲だ。「管大納言の大姫って、歌が評判だって言う?」 貴晴が訊ねると、「ああ」 隆亮が頷いた。「きっと歌会に来たんだろう」「歌会? まだ十七、八だろう?」「十六だ」「その若さで!?」 貴晴は驚いて隆亮の方を振り返った。 歌会というのはただ歌を詠むのではない。 左と右に別れて歌を競う。そして審判がどちらが優っているか決めるのだ。 そ
その日も貴晴は母から「早く妻を」とせっつかれていた。 祖父の邸に行けという話はうやむやになったらしい。 あれ以来、何も言われなくなった。「いいですか、早く妻を……」 母がくどくどと何やら言っているのを聞きながら貴晴は横目で庭を眺めていた。「み吉野の み山の上の 月影に 桜の白き 色やうつらむ」 突然母が歌を詠じた。 貴晴が思わず視線を戻すと母は、してやったりという笑みを浮かべた。「帝の行幸の時に管大納言の大姫が詠んだのだそうです。帝や春宮も感心していらしたとか」 母が言った。 なんだ、春宮狙いか……。 貴晴は興味を失って庭に目を戻した。 先日の帝の行幸なら歌会ではない。 歌会でもないのに帝や春宮がいるところで詠じたというのなら彼らに聞かせるためだろうし、それは気を引きたかったからだ。 ならば妃になりたいという事だろうし、だとすれば出世の見込みのない下級貴族など鼻にも引っ掛けないだろう。「どう思いますか?」 母が言った。 どうと言われても……。 手の届かない相手なのにどうしろというのか。 いっそ適当な姫との話を付けてきてくれれば楽なのに……。 この前の国司の娘とか……。 貴族の結婚は男が妻の元に通う妻問婚が多いが親が決める政略結婚もないわけではない。 貴晴が母になんと答えようか悩んでいると由太がやってきた。 由太は貴晴の乳母子――乳母の子供、つまり乳兄弟である。「失礼致します。隆亮様がお見えです」 由太の声に、「母上、今日はこれで失礼します」 と言うと母がそれ以上何か言う前に席を立った。 持つべきものは気の利く乳母子と身分の高い友である。 まぁ隆亮自身はそれほど身分が高いわけではないが父親が右大臣なのだ。 右大臣は数少ない大納言より上の官職である。それより遥か下の木っ端役人からしたら雲の上の存在である。 当然訊ねてきたら最優先で出迎えなければならない。「由太、よくやった」 貴晴がそう言って部屋に入ると隆亮が座っていた。 助け船を出してくれたわけじゃなかったのか……。「邪魔したか?」 隆亮が声を掛けてきた。「い